(はじめに)

この『てくまりんぼ誕生物語』は2005年から数年かけて書き綴っていたものです。当時、たくさんの方にお読み頂いて感謝申し上げます。

【ブライダルソーイングアカデミー】を始めるにあたって起業を志す方にはぜひ読んで頂きたいと思い、加筆しながら再度掲載します。

文章のタッチも今よりだいぶ軽いノリですが、それはそれで楽しんで頂けると思いますのでそのままにいたします。

書いた時は起業したところまでで話を終えましたがその後の出来事も本当に面白い(←自分で言う)ので引き続き加筆して参りたいと思っています。

では、始まり、始まり~

第1話 基礎を学ぶ

ウエディングドレスのオーダー工房を始めるまで、どんな仕事をしていたの?

どんな勉強をしたの?・・・時々こんなご質問を頂きます。

今日から少しずつ連載でお送りします。

わたくし、原田奈美子。たくさん、たくさんの経歴があります。大変な事もたくさんありました。

今日は18才~24才の頃のお話。

大阪モード学園という所でファッションのお勉強をしていました。

4年間勉強した後、(株)ファミリアという子供服の会社に就職しました。

そこで配属されたのがなんと!皇室紀宮様のお衣装を作る部隊です。

紀宮様のお洋服のデザイン画を描く仕事を3年間しました。

厳しい規制の中でのお洋服作りはけして楽しいものではありませんでした。

でもほんの少しのミスも許されない厳しい職場の中でオーダーの基本、というものを学んだような気がします。

今考えると皇室の服を作るなんて、究極のオーダーですよね。

でも若い私にはがんじがらめでしんどい事ばかりで3年と数ヶ月頑張った後、とうとう会社をやめてしまいました。

やめた後、なぜか『インド』に旅立った私でした。・・・
(第2話に続きます)

 

(書いた日2005年9月23日)

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*2016年12月20日追記*
私が勤めていた会社の創業者の話を元にしたNHKの朝ドラ『べっぴんさん』が今、放映されています。

当時は坂野さんはじめ創業者の方々もご健在で会社で良くお見掛けしていました。

ドラマの中では『良子ちゃん』と呼ばれている方はきっと村井常務の事かしら?と想像しながらドラマを毎日見ています。

村井常務はとても明るくて笑顔の素敵な方で良くお声がけいただきました。『良子ちゃん』の印象そのままの方です。

残業が続いている時、部下が野菜不足にならないようにとお手製のキュウリの漬物を持って来られていた事を憶えています。

ヒロインの『すみれさん』こと坂野惇子さんは私にとっては雲の上の存在で怖くて仕事に厳しい方と言う印象を勝手に持っていました。

会長の坂野道夫さんは、毎日のようにお見掛けしていましたがいつも笑顔でとても穏やかな方と言う印象でした。

道夫さんの事で覚えているのが秘書の方のお話です。秘書の方が食べ物を残すと「全部食べなさい!
」と怒られると言う話を聞いていました。戦争に行かれて色々苦労された方だから食べ物を残すと言うのは有り得ない事だったのでしょうね。

道夫さんと惇子さんはいつもおふたりで行動されていました。仲のいいおふたりでした。

今まで朝ドラは観た事が無かったのですが、自分の知っている人がモデルになっているドラマですので毎朝欠かさず観ています。

・・・ちょっとした余談でした。

第2話 恋愛話

今日は第2話。前回は皇室のお衣装スタッフを辞めてインドへ旅発つところまででした。

おっとインドに旅立つお話の前に、わたくしその頃実は大恋愛をしていたんです。

こんなにも人を好きになるという事があるんだな、とその頃良く思っていました。

結婚したいと思っていました。
自分からは言い出せないので心の中で「結婚しようと早く言え!!」といつも念じていました。

そんな彼がいたのになぜインドに行きたいと思ったのか?

皇室のお衣装の仕事はがんじがらめの制約だらけでいつもいつも「自由になりたい」と思っていました。

インドに行けば何かが吹っ切れるような気がしました。

上司に告げた会社を辞める理由は「インドにいくから」・・・

帰ってきたら復帰しな、と言われるのが嫌でついでに言った言葉が

「行ったら帰って来ないかもしれません。」

・・帰って来ないわけがないのにねー。
ラブラブの彼が待っているのに。ウフッ。

インドは素晴らしい国でした。

建物の美しさに目を奪われました。

生活している人々を見て生命力の強さを感じました。

タージマハールに行ってその美しさに息を飲むと同時に時の王様がお后のために
建てたお墓である事を思う時、その悲しい物語と重ね合わせて涙が自然にあふれて来ました。

ガンジス川で沐浴する人達を見てうらやましい、と思いました。

私も死んだらこの川に流してもらおうと思いました。

インドは強烈な印象を私の心に残しました。

何かが吹っ切れた様な気がして今までのしがらみもすべてほんの小さな事のように思うようになっていました。

帰国した私は今までの自分とは違っている事に気が付きました。

人に遠慮する事無く、がんがん生きて行こうと思うようになりました。

インドから戻った私は・・・そして恋愛の行方は・・・

次回をお楽しみに!!

(書いた日2005年9月27日)

第3話 調子に乗る

インドから帰った私はまた働き始める事にしました。

世はバブルに突入しようかという頃で就職情報誌も今の3倍ぐらい分厚くて、服飾
デザイナーの募集もたっくさんありました。

その中で一番大手で一番条件の良さそうな所に目を付けて応募、何だか分から
ないけど、採用されてしまいました。

大阪に本社を置く某大手商社の企画室のデザイナーとなりました。

はっきり言って何ていいかげんなもの作りをしているんだろう、と驚きました。

でもそれなりに頑張って、しばらくここで働こうかなー、と思っていた矢先に何と!
私に東京転勤の内示が・・・

すっごく単純な私は東京の企画室に転勤だぁー、ランラランラララー♪といった感じの
おバカ状態でした。

その頃『シンデレラエキスプレス』というのがはやっていました。

東京と大阪に分かれた彼と私。週末ごとに逢うのよ。新幹線のホームでコマーシャル
で見たようなさよならを毎週するのよ。と勝手に決めて盛り上がっていました。
彼と私の恋は転勤を気にますます燃え上がるはず、と固く信じていました。

それ以上何も考えず、喜んでいたバカな私・・・

とりあえず、報告を彼にしなくっちゃ!と

「東京に転勤しないかと言われたよ。どうしようかなー。」と一言。

帰って来た言葉は思いもかけないものでした。

「あっそう。どうするかって、はっきり言って他人事・・・」

今でもこの時の彼の言葉は忘れられません。突き落とされた気分でした。

絶対愛されている自信があったので「行くな、結婚しよう」という答えを一番求めて
いたのかも知れません。

これは、シンデレラエキスプレスどころか転勤してしまったら私達の関係も終わりだな、
と感じました。

考えの甘さに初めて気が付き、愕然とした瞬間でした。

・・・次の日、上司に転勤を断りました。・・・

転勤を断ったらサラリーマンデザイナーは辞めるしかないです。

彼を失う事を考えたら会社を辞める事は大きな問題では有りませんでした。

その時の自分にとって何より大切なものを選択しました。

今考えると彼の「はっきり言って他人事」という返事は私を行かせまいという彼の作戦
だったかも、という気がしています。

それからも、その一件は無かったかの様な今までと同じ付き合いが続きました。
次の会社もすぐに見つかり、またデザイナーとして働き始めていました。

私は段々あせってきました。20代も後半、これからどうなるのだろう。

安心と安定が欲しい、と強く思い始めていました。

でも自分から、「結婚しよう」とは言えなかったです。ただ言ってくれるのを待っていました。

そんな楽しいけれど不安な毎日が続いたある日、彼に飲みに誘われました。
ちょうど私の26才の誕生日でした。

この続きは次回。どうぞお楽しみに!

(書いた日2005年11月14日)

第4話 それってプロポーズ?

私の26才の誕生日。大阪梅田のジャズバーの様なお店で彼とふたりでお酒を飲んでいました。

とりとめも無い話をしながら彼がポケットから出したものは、指輪。では無くて、賃貸情報誌の
たーくさんの切り抜き。しかもどれも似たような価格帯。

彼「これ見て。」 私「(心の中で)見たけど、それが何なの。」

??????

彼「自分の給料では住める所はこんな感じかな。」

???それってプロポーズ???

今でもそれは謎です。^^;

その次の言葉がすこーし腹が立つんです。

「僕は男やからまだいいけど、奈美ちゃん、もういい年やし・・・」

どっかーん!!私のために結婚するんかい!と思ったけど、やっぱり嬉しかった・・・

でも、彼の集めた切り抜きの倍位の家賃、スペースに住もうと心の中で思ってました。

だって、仕事を辞める、というのは私の選択肢の中にはなかったから。

そしてもうひとつ。子供は私はいらない。と思っていました。

ふたりで面白おかしく一生送ってやろう、という考えでした。

(書いた日2005年11月14日)

第5話 彼、父に会う

いざ結婚が決まって彼が私の両親にあいさつに来た時の事。

いきなり私の父親が初対面の彼に向かって「あんた、給料なんぼもらってるんや?」

かなり個性的な父で、色々なびっくり発言には母と私は慣れているのでその程度の発言は何とも思いませんでしたが彼は驚いたようでした。

ところで結婚に関して大きな問題を彼と私は忘れていました。

・・・・・お金がない・・・・・特に彼。

何はともあれその日から1年後の結婚に向かって猛然とふたりで貯金を始めました。
何とか、教会での結婚式とハネムーン費用は捻出できる運びとなりました。

でも問題はまたまた父。結納も披露宴もしないと決めていたのに父が「そんな事は許さん!」と怒りまくり、結局するはめになってしまいました。

今思っても結納と披露宴はしなければ良かったと思っています。

でも、でも一番のお楽しみはやっぱりウエディングドレス。

自分のウエディングドレスは絶対自分で作ろうと決めていました。

(書いた日2005年11月18日)

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*2018年7月5日追記*

大暴れの人生を送った(笑)父も2018年5月10日、お空の人となりました。81歳でした。

「死ぬまで仕事をしたい」と言うその言葉通り、ずっと働き続けた人生でした。

父は『生き切った』と思います。尊敬しています。

 

第6話 自分のドレスを作る

今日は私の初めてのウエディングドレス作りのお話。

世はバブルの真っ最中。今思うと華やかで贅沢で無駄の多い時代でした。

ちょうどゴンドラで降りてくる結婚式のスタイルがはやっていた頃です。

ウエディングドレスの流行もデコラティブなもので、今てく・まりがお作りしている
ウエディングドレスの対極にあるようなものが多くはやっていました。

デザインは5分でしました。直感で自分の好きなものをデザインしました。

その時は”ことのほかシンプル(!)”と思っていたのですが今考えるとデコラティブ
以外のなにものでも有りません。

シンプルと一言でいってもその時代に即した”シンプル”があるのだなーと実感させられます。

そのデザインは、というと・・・

シルエットは超プリンセスライン。お袖はもちろん長袖。でっかいパフスリーブで袖口に
向かって細くなっていきます。

あちらこちらにレースをあしらい、レースの下は土台生地をくり抜いてオーガンジー
などをはさみ込んだ2重構造にしました。

レースの回りには白いお花(アートフラワー)を200個ほど作って散らす、という
事にしました。

でっかいプリンセスラインにどうしても必要なのがでっかいパニエ。

今も家にありますが収集が付かないほどの大きな大きなパニエです。

自分で自分を採寸してまずは仮縫いの準備です。

パターン(型紙)を引いて、シーチング(仮縫い用の生地)を裁断。組み立てていきます。

仮縫いドレスを着て、修正して今度は本番の生地でもう一度仮縫いしてから本当の縫製に
入ります。

毎日、昼間は仕事で家に帰ってから夜、コツコツと作っていました。

睡眠時間が削られるのはデザイン学校時代から慣れているので平気です。

作りながら、楽しくて楽しくて仕方ありませんでした。♪

完成した時、また作りたい!と思っている自分がいました。

これが私のドレス作りの最初です。^^

(書いた日2005年12月1日)

第7話 結婚式

いよいよ結婚式のお話です。

世はバブルの真っ只中、華やかな結婚式が当たり前の時代です。

でも、私達はどうしてもそういった結婚式を挙げる気持ちにはなれませんでした。

町の小さなカトリック教会で簡単に、だけど厳粛な挙式をする事にしました。

簡単な式なのですが、集まった人は120人!

教会の人が「ここにこんなに人が集まったのは初めてです。」とおっしゃっていました。

殺人的な仕事の忙しさで私は劇やせしてしまい、せっかく体に合わせて作ったのにガボガボ状態でした。^^;

胃が痛くて体調、最悪でした。

結婚するから仕事をやめる、という選択肢は私には無かったのですが結婚前に上司から言われた一言がすっごくショックでした。

私が上司に結婚の報告をした時に帰って来た言葉が

「おめでとう。あのー、それで会社はいつ辞めるの?」

・・・男性にはこんな事はだれもいいませんよね。

デザイナーとして仕事を任されて、深夜までの労働もいとわず会社のために働いて来たのにと思うとくやしくて、悲しくて・・・

何かおかしい、この世の中!!とその時から真剣に思い始め今に至ります。

次回はてく・まり誕生には直接関係ありませんがハネムーンのお話です。

(書いた日2005年12月2日)

第8話 最高のハネムーン

今回はハネムーンのお話です。

添乗員ともくんがふたりだけのために企画した最高に素敵なハネムーンでした♪

結婚式は実は5万円で済ませたのですがハネムーンにはおもいっきりお金をかけました。

個人旅行で行きたい所だけに行って泊まりたいホテルだけに泊まるとツアー旅行の何倍も
お金が掛かります。

スペイン・フランスを夜行列車を乗り継いだりしながらめぐる豪華12日間の旅でした。

歴史を感じさせるヨーロッパの街並みに目を奪われました。

美しいものをたくさん見て、おいしいものをたくさん食べる事が出来た旅でした。

スペインは英語がほとんど通じません。

でもガイドブッグに書いてあるスペイン語のカタカナ読みで充分、通じたので特に
不自由を感じる事はありませんでした。

私は陶器が好きなのでスペインのトレドという町で見た”タラベラ焼き”のお皿の
色鮮やかな配色が目に焼きついています。

今でもその時に見たもの、食べたものの話をふたりで良くする事があります。

同じものを見て美しいと思える事や仕事に対する姿勢など価値観が彼とは非常に
似通っているので結婚して16年たった今でもマンネリになる事なく、会話をはずませる
事が出来るような気がしています。

ハネムーンから帰った私は今まで通り、また働き始めました。

職場では旧姓で通すつもりだったのですが頭の固い上司がそれを許してくれませんでした。

得意先と話す機会も多かったのでいきなり名前が変わるというのはどう考えても抵抗が
ありました。

なんで女だけがこんな思いをしないといけないのか腹立たしい思いでいっぱいでした。

名前が変わる事を嬉々として受け入れる女性も多いと思うのですが自分には我慢の
出来ない事です。

最初に勤めた会社では女性の取締役の方が多い日本では非常に珍しい会社だったのですが、女性の取り締まり役は全員独身。

女がこの男社会で独り立ちしていくには、結婚も出来ない状況が現実にあります。

そういった事に対しては人一倍、反発する気持ちが強い私が心に決めた事は

『私は幸せな結婚生活を送りながら、仕事でも成功をおさめてやる!!』という事です。

(書いた日 2005年12月25日)

第9話 男社会

結婚前と同じ会社で働き続けるつもりだったのに結婚後いきなりのカウンターパンチは名前の事。

結婚した事と対社外のもろもろとは全く関係の無い事。

わざわざ結婚した事を知らせるつもりも無かったので苗字も旧姓のまま通すつもりが会社の圧力でそうもいかなくなりました。

社内の人にも名前は前のままで、とお願いしたのに思うとおりには行きませんでした。

上司に直談判しても私の言っている意味も分からない様子。

完全な男性社会・・・

結婚したら会社を辞めるのが当たり前の会社ではもうやってはいけないと思い出したのです。

(続く)

(書いた日2006年1月5日)

第10話 働く、働く

会社を辞めた私は、すぐに再就職。
今度は今までと違って小さな縫製メーカーです。

小さい会社なので分業式では無く、すべてを自分で完結させなくてはいけません。

自分で企画して、デザインして、生地を選んでサンプルを作って、さらにそのサンプルを持って売り込みに行って値段の交渉、注文があれば今度は生産ラインに乗せるための作業が待っています。

本生産用の型紙を作って反物を仕入れて、裁断工場に出し、戻ってきたら縫製指示・・・

デザイナーでありながら、営業マンでもあり、さらに工場を動かすという事をすべてひとりでやっていました。

今までにないやりがいを感じていました。

バリバリ仕事をしている中で忘れる事の出来ない悲しい出来事があります。(続く)

(書いた日2006年5月17日)

第11話 悲しい出来事

とても悲しい出来事・・・

せっかく授かった新しい命を失ってしまいました。

流産です。

仕事があるから、仕事のキャリアをストップさせたくないからという理由でずっと子供は作らないつもりで結婚したのですが、女としての本能的なものがそう思わせたのか結婚して6年が過ぎた頃から子供が欲しいという気持ちに変わっていました。

そして、授かった命だったのに・・・

特に夫は子供好きだっただけにショックも大きかったと思います。

それでも落ち込む私に「君がいてくれたらそれでいい」と言ってくれました。

うーん、この事はあまり書きたくなかったですが何もかも包み隠さずという覚悟で書き始めた誕生物語ですのでやはり飛ばす訳にもいかないので思い切って書くことにしました。

自分の体を省みず、仕事ばかりしていたバチが当たったのかと真剣に思いました。

それでも仕事を辞めるという事は考えませんでした。

何がそんなに自分を駆り立てるのか、それは未だに不明です。

(書いた日2006年7月15日)

第12話 葛藤

悲しい出来事(第11話参照)を乗り越えたあと、子供(男の子、2年遅れて女の子)を授かりました。

出産直前まで仕事をして産後8週休んだあとに復帰して働き続けました。

結婚した時、仕事をやめるという事が自分の選択肢になかったように、出産したからと言って仕事をやめるという事は考えた事がありませんでした。

仕事は自分の人生をつかさどる大切なもの。

子供は可愛い。だけど自分の人生と子供の人生は全くの別物。と思っています。

お互いを尊重しながら仲良く一生を送れたらそれが最高。

子供に対する自分の基本的な考えです。

そんな事を言いながらも子供にはとても甘い母です。^^

下の子を始めて保育園に入れる前日、悲しくて悲しくて、自分はこんなに小さい子供を預けてまで何をしようとしているのだろう。

仕事がそんなに値打ちのあるものなんだろうか。

まだ生後2ヶ月の娘を抱きしめて自問自答を繰り返しながら、子供に「ごめんね。」とつぶやく自分がいました。

自分を駆り立てるもの。

『野心』というものかもしれません。

いつか起業して社長になりたい。自分の裁量で会社を回してみたい、という気持ちがその頃からあったのかもしれません。

(書いた日2006年7月19日)

第13話 これではない

会社勤めを続けていてもどこか満たされない気持ちがあって自分の本当にやりたい事はこれではない、という気持ちがいつもあったような気がします。

でも自ら会社を辞める勇気はありませんでした。

生活がかかっていますから。

専門学校を卒業してから16年間、企業デザイナーとして頑張ってきたけれど、自分が本当にいい、と思える服を一度でも作れた事があるのだろうか。

紀宮様のお衣装担当の時からずっとずっと誰かの言いなりで物づくりを続けてきたような気がしていました。実際そうだと思います。

そんな気持ちが日々高まっていた頃、劇的な変化が訪れました。

(書いた日2006年7月19日)

第14話 劇的な変化

劇的な変化・・・

勤めていた会社の倒産です。

アパレルは本当に倒産の多い業種で、私も取引先の倒産には何度か出くわしてきました。

でも自分の会社が倒産するというのは初めての経験でした。

バブル崩壊と共に業績が悪化していたのも知っていましたが、倒産と言うのは、やはり衝撃的な事でした。

この時、悲しい家族旅行をしました。

取引先から逃れるために、ふたりの子供を連れて神戸に旅行に出かけたのです。

会社が倒産すると、支払いをしてもらっていない取引先はどんな手段を取っても(従業員の自宅に押しかけても)未払い分を回収しようとすると言う事は人生の経験上、知っていました。

何も知らない子供達が無邪気に喜んでいるのを見て複雑な気分でしたが、もう私の中では気持ちの切り替えが出来ていたような気がします。

夫が海外出張中で不在だったので、自分がしっかり子供達を守るしかないと言う緊張感からか旅行中、悲しいとかつらいというマイナスの感情は有りませんでした。

くよくよしても始まらない。

前を向くしかない。これからの事だけ考えよう。

そして今はこの旅行を楽しもう。

と考えていました。

悲しい家族旅行と書きましたが、その時は悲しいとは思わなかったのに昨日、久しぶりに出かけた神戸で当時泊まったホテルを見た時、初めて悲しい気持ちになりました。

当時は気が張って、努めて明るく気持ちを保とうと思っていたのが、きのう久しぶりにそのホテルを見た時、当時押さえていた感情が吹き出したのかも知れませんね。

(書いた日2006年9月28日)

第15話 前しか見ない

勤める会社がなくなって1ヶ月ほどは、これからの事を色々考えていました。
でもひとつだけ最初から決めていた事は「もう会社勤めはやめよう」と思っていたと言う事です。

人の言いなりになるのはもうやめよう、自分の人生、これからは自分の本当にやりたい事だけをやろう。

そう思っているうちに、今回の事(会社の倒産)は私にとってチャンスなんじゃないかと考えるようになってきました。

そう、ピンチではなくチャンスです。

起業という言葉が頭の中で渦巻き始めました。

勤めていた会社が倒産したのが2000年の9月。もう人に使われるのはやめようと思って起業を決意したのは10月。てくまりんぼと言う名前を決めたのは11月です。

この時は、実はウェディングを仕事にするつもりは有りませんでした。
私は前の会社で婦人服のデザインと型紙を作る仕事もしていました。はい、営業もしていました。

何でもしていたって事です(^^)

起業しよう、私に何が出来るんだろうと自問自答の日々が1ヶ月ほど続きました。デザインは出来る。型紙も出来る。服を作るしか無いよね~。と何となくは考えていました。

考えても、考えても、考えても、「これだ!」と言うものは浮かびません。

怖ろしい事に(笑)私の夫も私より1年ほど前に勤め人をやめて独立していました。

起業1年目の夫もまだ色々模索していた時代でした。旅行会社を立ち上げていましたが、いきなりお客さんがわんさか来る訳も無く、まだまだ時間に余裕が有ったのだと思います。

話しているうちに一緒に何かを始めようと言う話になったのかも知れません。

多くは憶えていません(^^;)

夫はDTPの学校に行っていましたのでデザイン系のソフトは使えました。チラシとか、ポスターなどを請け負って作ろうと言う話になったのかも知れません。

私は昔勤めていた会社の先輩の紹介で、ある婦人服メーカーさんの型紙を作る仕事を外注で受けるようになりました。

夫の出来る事、私の出来る事をひっくるめてひとつの事業にしよう。とにかく名前が絶対に必要だと言う事で2人で家の2階の四畳半の部屋で考えました。

その頃、私達の子供は上の子が3歳。下の子が1歳でした。

こんな小さな子供が居るのに起業しようと思った私はアホです。間違いなくアホだと思います。

でも、アホも15年続くと本物です(笑)

ネーミングの話に戻ります。

どちらが言い出したのか、子供の名前を新ビジネスの名前に入れようと思い立ちました。

上の子の名前は【太陽(たいよう)】。。。うーん、これを会社名にするのは却下(笑)

下の子の名前は【真凛(まりん)】。。。これ、使えるやん!

まりん、まりん、まりん・・・・

ふと、夫が言いました。「てくてく歩くまりん、をもじって【てく・まりん】はどう?」

1歳の娘はちょうど、てくてく歩き始めた頃でした。可愛いかったですよ(^^;)

夫の提案に私は即答。「それ、いいやん。それにしよう!」・・・・簡単です。

考えるのに疲れて来ていて何でも良かったのかも知れません。ここで白状します。

どんな名前でも「それ、いいやん。それにしよう!」と言っていた自信があります。どこまでもいい加減な女です(笑)

『てく・まりん』と紙に書いてみました。うーん、悪くは無いけど何か足りない。。。。

考えるの、メンドクサイなあ。ときっと私は思っていたと思います。でも夫はちゃんと考えていました。

「じゃあ、最後に『ぼ』を付けて【てく・まりんぼ】はどう?何か可愛いやん」

それを聞いた私→「それいい!それにしよう!!」・・・・どこまでも適当な女です。

と言う事で【てく・まりんぼ】と言う名前に決定しました。

名前の前に何か枕詞が欲しいよね、と言う話になりました。

洋服の型紙を作ったり、チラシを作ったり、ポスターを作ったりします。

ひっくるめて『ビジュアル工房』と言う事にしました。

2000年11月。【ビジュアル工房 てく・まりんぼ】の誕生です。

テクノロジーのテク、テクニックのテクと言う意味も『てく・まりんぼ』と言う名前が決まってから追加でくっつけました。

『てく』には色々な意味が込められているのです。
(16話に続きます)

(書いた日2006年10月16日)

第16話 子供達

起業を考え始めた頃、自分の子供達は1才と3才。

それが起業を思いとどまらせる要素になる事は全くありませんでした。

出来ない理由はいくらでも出てくる。

でも子供を理由に自分のしたい事をあきらめたら、それは一生後悔する事になるかもしれない。

私が毎日イキイキ楽しく暮らしていたら、その姿をきっと子供達は見てくれている。子供達が大きくなった今でもそう思っています。(ただその事によって思春期になった子供達はとんでもなく自由な若者になりました。このお話はまた後日)

2000年も暮れようとしている頃、まだ核となるビジネスを見つけられずにいた私ですが、とにかく何か作ってみよう、それをインターネットなるもので売ってみようと考えていました。

インド好きの私はインドテイストの女性の服を数点作りました。面白い服を作りたいと考えていたのでザクッと織られた目の粗い生地や藍染めの生地など手当たり次第に買って来ました。

昔趣味で少し習っていたジャワ更紗のテイストも入れたいと考えて、ジャワ更紗の文様を入れた服などを作りました。

インドのユニークなボタンをたくさん付けた服も作りました。

何点か作って分かったのは『思い通りの服を作ろうとしたらとてつもなくお金と手間がかかる』事です。

いくらで売ろうとしたのか今となっては何も憶えていませんが、きっと材料費に少しだけ利益を乗せた感じの値段設定で考えていたと思います。

制作している自分の手間が価格に入っていない事にその頃は私は気づいていませんでした。

とにかく前に進まないと、と言う想いだけはしっかり有ったと思います。

数点の服の写真を撮りました。ハンガーにぶら下げて庭の緑をバックに撮ったと思います。

向かいの奥さんがそれを見て「可愛い服やね~」と言ってくれた事を憶えています。
(ウェディングに方向転換したのち、その服はその奥さんに進呈しました^^)

モデルも使わず、ただハンガーにかけただけの写真。今なら全く通用しない画像だと思います。

当時はネットショップ自体が珍しい頃でしたのでそんな画像でも何とかなったのかも知れません。

ホームページは夫に作ってもらおうと思っていました。メールひとつした事のない自分が出来るはずが無いと最初から諦めていました。

でも数点の画像があるだけでそこからどう進めばいいのか、分からない事が多すぎました。

でも楽しかったです。まだ1円のお金にもならない状態でしたが、インターネットと言う未知の世界によって自分の未来は開けていると感じていました。
(17話に続きます)

(書いた日2006年12月12日)

第17話 インターネットショップにチャレンジ

庭で写真を撮って、ホームページの真似事をしながら画像をアップしてみたりしていたのですが、その当時はインターネット環境が今とは全く違います。ちょっと大きめの画像をアップしたらたちまちパソコンが固まります。画像の読み込みに1時間位かかったと言うウソのようなホントの話もあります。

大体メールもした事が無い私がインターネットショップを始めようとしたのが無謀過ぎました。

はい、心が折れました。婦人服のパターンの外注のお仕事は少額ながら確実に稼げます。自信もありました。

それに比べてネットショップは素人で、分からない事だらけです。楽しい事は楽しかったですが当時の私にとってはネットで商売すると言うのはとんでも無く険しい道のりに感じました。

完全にやめてしまうと言うよりもっと手っ取り早い事を先に始めようと決めました。

もう一度、何がしたいのか年末年始、じっくり考えました。

自分は何が好き?と自分に質問。
<好きなもの>
・結婚式
・インド
・動物
・本を読むこと

と言う事で2000年1月の初め、『結婚式で行こう!』と決めました。やりかけていたインドの服には未練がありましたが売り方が分からない以上、今は封印しようと思いました。

いつか出来る時が来たらやろうと思い、その気持ちは今も変わっていません。そう、時が来たらやりますよ(^^)

結婚式は本当に好きです。あの何とも言えない幸せが満ち満ちている空間が好きです。

『結婚式』関連で自分が出来る事と言えばどう考えてもウェディングドレス作りです。

他に選択肢はありません。

夫に相談しました。「ウエディングドレスのオーダーをしようかな。○○に広告を出してみようかな」

返って来た言葉は「そうしたら」でした。

この言葉をきっかけに、ウエディングドレスの仕事を始める事になったのです。

(第18話に続きます)

(書いた日2007年11月2日)

第18話 初めての広告

地元の広告誌に3行だけのテキスト広告。1行1500円。その時の自分に出せる広告費はこれが精一杯でした。

『ウエディングドレスオーダー承ります。5万円から。』

15年間、デザイナーとして働いてきて色々なアイテムを経験してきましたが
ただひとつ、扱った事のないアイテムがウエディングドレス。

女性として生まれて、デザイナーとして仕事をしている以上はいつかは、ウエディングドレスを扱ってみたい。

そんな気持ちがずっとあったような気がします。せっかく勤め人のしがらみから解き放たれたのですからウェディングをやるなら今だと思っていました。

広告を出してお客様からの連絡を待つばかりとなりました。
(19話に続きます)

(書いた日2008年1月20日)

第19話 はじめてのお客様

地元広告に広告を出してもそんなにすぐにお客さんが来てくれるはずもありません。

それでも何度か出しているうちに1本の電話が掛かってきました。

最初のお客様は堺の方でした。

お母様と彼と彼のお母様、4人でお見えになりました。初回のお客様が4人とはインパクト強過ぎますね(笑)

デザイナーとしてのキャリアはあってもウエディングドレスのデザイナーは経験が無いので内心ドキドキで接客したのを憶えています。

ドレスのサンプルも無いので自分の結婚式に作ったドレスを飾りました。デザイン古っ!ですが仕方がありません。

お客様を不安に思わせたらいけないと思い、顔は笑っていましたが心の中はドキドキ不安でいっぱいでした。^^

お好みをお伺いしながらお客様の目の前でデザイン画を描きました。デザイナーですのでデザイン画は描けます。

それを見ていた花嫁さんのお母様が「さすがやね~、大したもんや!」とおっしゃったのを覚えています。

ウェディングドレスに対する専門知識も無い私ですが、お客様にはそれを感じさせてはいけません。

ウェディングの知識はありませんがオーダーで服を作ると言う事にかけては最初に勤めた会社で配属されたのが皇室の方のお洋服を作る部隊でしたのでオーダーの洋服を作る流れは身についています。

つとめて堂々と振舞いました。そうです、これぞ『見かけ倒し』です。

しかも自宅での営業です。生活感バリバリの中での仮縫い。

こんな私にドレスのオーダーを任せて頂いて、この第1回目のお客様がいらっしゃったから次につながって行ったのだと思うとこの時のお客様にはいくら感謝してもし切れません。

ドレスをお届けした後、弾んだ声で「届きましたよ!とっても素敵!」とお電話を頂いたあの時の嬉しさは一生忘れる事がないと思います。

広告に目を留めて下さった事に感謝。お電話をくださった事に感謝。お越し下さった事に感謝。
ドレスを作らせて下さった事に感謝です。

(20話に続きます)

第20話 副業

全くひとりのデザイン工房ですのでデザイン画を描いてお客様にご提案→型紙→仮縫い→本縫製まで完全にひとりでやっていました。

でもドレスの注文は忘れた頃にしか入ってこない状況でしたのでまだ手があまっていました。

ドレスだけでは全然、仕事として成り立たないので色々な事をしていました。

ショップ名も「ウエディング工房てく・まりんぼ」では無く、「ビジュアル工房てく・まりんぼ」と言う名前でした。

外注で企業のパターン(型紙)を受けたり、夫が『結婚式速報新聞』と言う仕事をしていたりしていました。

『結婚式速報新聞』と言うのはこんな感じの新聞です。

式場にカラーレーザープリンターとパソコンを持ち込みます。

結婚式当日の模様を取材して記事にして披露宴のお開きの時ゲストの皆様に「号外です!」と言って配ります。

さっきまで自分が参加していた披露宴の模様が新聞になって手渡されるのでゲストの方の驚きは相当なものです。

A3サイズのフルカラー印刷。

時間との戦いでプリンターの調子が悪かったりしたらヒヤヒヤものです。

スリルあふれる仕事でした^^;

(書いた日2008年3月20日)

第21話 お金が無い!

結婚式速報新聞とドレスオーダーの2足のワラジで半年位経った頃、ついに資金的に行き詰まりました。

何せ急に勤めていた会社を放り出されたのですから、開業資金を貯め込んでいた訳でもなく生活費を食い潰して営業を続けている状態でした。

特にウェディングドレスは生地などの仕入れ費用がかさみます。

とても安い料金でオーダーを受けていましたので、収支トントンか赤字の時も多かったように思います。

なんとか資金を調達しないといけないと思ったのですが、何をどうすればいいのか、どこに行けばお金を貸してもらえるのか全く分かりませんでした。

そんな時にふと目に止まったのが地元の市役所が出している広報紙『広報ひらかた』。

その裏に小さくこんな事が書かれていました。

『大阪府起業家セミナー受講生募集中。修了者には大阪府スタートアップ資金に応募する資格が与えられます。』

その下にさらに小さく注意書きがありました。
『修了イコール融資を保証するものではありません』

注意書きは全く目に留まらず、このセミナーを受ければ融資が受けれる!と超自分勝手に解釈した私は早速、書かれていた電話番号に電話をかけました。

気楽に受けようと思って電話をかけたのですが聞くと、受けるための書類選考があるとの事でした。

毎回、大変な競争率らしいです。

自分のビジネスプランを規程の書類に書いて、それで書き足りなかったのでたくさん追加書類をつけて、自分のビジネスに対する思いのすべてを書面に書きました。

送ってすぐに大阪府の方から電話が掛かってきました。

「すばらしいビジネスプランです。ぜひ起業家セミナーを受けて下さい。」

後で良く考えるとビジネスプランの内容より書類の枚数の多さに
担当者の方が圧倒されて通ったような気がします^^;

「こいつを落としたら根に持たれそう」と思われたのではと本気で思っています^^

セミナーは2001年8月の最初の土曜日にスタートしました。

毎週土曜日、合計5回位のセミナーでした。朝から晩までみっちり商売を始めるためのノウハウを学びます。

30名の同期の方がいらっしゃいました。

100名以上の応募があったと聞きました。

セミナーの講師の方に「落ちた人の事を思って頑張れ」と言われた事を憶えています。

必死でした。講師の方のひと言ひと言を絶対聞き漏らすまい、と言う気持ちでした。

財務の話など自分は今までまったく縁が無く、知らない事ばかりでした。

勉強になったと同時に起業を志すたくさんの仲間にめぐり会えた事が自分にとってはすごく大きいものでした。
(第22話に続きます)

(書いた日2008年5月20日)

第22話 チャレンジ!

起業家セミナーの最終回に全員が各々のビジネスプランを発表します。

その発表の中で特に優秀と認められたビジネスプラン発表者3名は来る9月に大阪国際会議場で行なわれる『ベンチャー2001KANSAI』で大勢のマスコミの前でプレゼンテーションが出来る機会が与えられると言う事でした。

自分なりに一生懸命考えました。

ウェディングドレスのオーダーとITを絡める事は出来ないかと考えました。来店しなくてもウェディングドレスのオーダーが出来る仕組みを考えました。
お客様の個別ページを作ってお客様が自分のページにアクセスすれば自分のドレスの進行状況を見る事が出来れば面白いな、と思いました。

今でこそ当たり前ですが当時はインターネットを駆使したビジネス、と言うだけで目新しいと言う認識が世間一般にありました。

ただそれだけでは弱いので『結婚式速報新聞』のビジネスも一緒にしてしまおうと考えました。

夫が主になって動いていた速報新聞ですが、ここまで来ればそんなものは関係ありません。目立つビジネスモデルにしないと勝てないと思いました。

必死で事業計画を作り、プレゼンの練習をしました。

起業家セミナーのビジネスプランの発表の日を迎えました。

外部の専門家の先生も審査員として来られてました。

その中でなんと私が優秀者3名の中のひとりに選ばれてしまいました。

起業家セミナーが縁で9月に大阪国際会議場で開かれる『ベンチャー2001KANSAI』でプレゼンテーションをする事になりました。
(第23話に続きます)

(書いた日2008年6月20日)

第23話 はじめて作ったホームページ

起業家セミナーで教わった事のひとつに「これからの会社はホームページ位ないとダメだ」と言うのがありました。

単純な私は人の言う事は完全に真に受けます^^;

たいへんだ!たいへんだ!たくさんのマスコミが来るチャンスなのにホームページがない!作らなきゃ。

と思った私は生まれて初めてのホームページ作りにチャレンジしました。1年前、インドの服をネットで売ろうとして挫折しましたが、その時と比べて本気度は数段違っていたのだと思います。

【必死】な気持ちは色々な不可能を可能にします。奇跡も起きると思います。

作ろう!と思い立って実際のプレゼンテーションまで2週間もなかったと思います。

メールすらした事がない私が果たして出来るのだろうか?

と言う不安は実は有りませんでした^^;

この頃、何かにとりつかれたように必死でした。

何でもやれば出来る、と思っていたと思います。

『ホームページビルダー入門』と言う本を買って来ました。

今思い出しても赤面するようなド派手なホームページを作りました。

本当に1週間で10ページほどのホームページを仕上げてしまったのです。

完成したのはプレゼンテーションの2日前だったと思います。

滑り込みセーフで案内チラシにURLを入れてもらう事が出来ました。
(第24話に続きます)

(書いた日2008年8月20日)

第24話 舞い上がったプレゼンテーション

いよいよ『ベンチャー2001KANSAI』の当日です。

大阪国際会議場で開かれました。立派な建物にいきなり圧倒されてしまい、さらに人の多さにも圧倒されました。

プレゼンテーション会場もぎっしりの人です。完全に舞い上がってしまいました。

超早口になった私は予定時間の半分ほどで話が終わってしまいました。

次の発表者の方、主催者の方に大変なご迷惑をかけた事、今でも申し訳なく思っています。

大失敗のプレゼンテーションでしたが、これをきっかけにプレゼン度胸がついて今後何度も訪れる人前で話す機会には全くあがる事なく、時間も規程時間きっちりに終わる技を身につける事が出来ました。

数年後にこの時、聞いておられたマスコミの方の取材の申し込みがあったりして、失敗とは言え、その後あの時のプレゼンテーションのお陰で色々たくさん良いことがありました^^

最大のいい事が、この後訪れるベンチャー企業の登竜門である『テイクオフ21』の認定につながったと言う事だと思います。
ベンチャー2001が終わった後、起業家セミナーで教えてもらったある情報をふと思い出しました。

大阪府のベンチャー企業支援の制度のひとつに『テイクオフ大阪21』と言うのがある。

書類審査の後、プレゼンテーション等もあるがもし認定企業になれば色々な府の支援策が用意されている。

認定企業の中でも特に優秀と認められば100万~400万円までの助成金が支給される。

と言うものです。

助成金、と言うのは融資と違って返さなくて良いお金です。

当たり前の事ですが^^;

100万円の利益を出すと言うのは本当に大変な事です。それがこの審査で認められればその金額が一度に入ってくる。

何度もいいますが返さなくて良いんです。

チャレンジしてみる価値のあるものだと思いました。
(第25話に続きます)

第25話 甘くはない

しかし、実際に乗りかかってみるとこれ程大変な事だとは思いもしませんでした。

詳細な収支計画はもちろんの事、ビジネスモデル自体が斬新でITを使ったもので無くてはならない。

テーマは『結婚式速報新聞とインターネットを使ったウェディングドレスのオーダーメイド』と決まったのですが、書類の書き直しが何度も何度も入り、本当に途中で止めてしまおうかと思いました。

何度書いても通らない。細かいチェックが入る。

仕事もそろそろ忙しくなってきましたので時間的にもきつくなってきました。

もうやめます。と言いかけた事が何度もあります。

本当にやめてしまおうと思い、やめる前にある方に相談しました。

起業家セミナーでお世話になった大阪府の田中さんと言う方です。

その方に相談に行ったらひと言。「ダメもとで最後までやってみたら」

・・・そのひと言が本当に大きかったです。

冷静に考えてみたら、ここまで書類が出来ているのならダメ元で提出までしてしまおうと思うのが普通かも知れませんが当時の私はそんな事も分からない位追い詰められていました。

「ダメもとで最後までやってみたら」このひと言で再びやる気になった私は、頑張って膨大な書類を仕上げてまずは提出しました。

まずは第一関門の書類選考です。これが通らないと次の段階のプレゼンテーションには進めません。

(第26話に続きます)

第26話 師匠との出逢い

驚く事にテイクオフ大阪21の書類に通ってしまいました。

次はプレゼンテーションです。

色々な専門家の前で自分のビジネスモデルを発表します。

この先生方の判断で認定されるかされないか、助成金が頂けるか頂けないかが決まります。

2ヶ月前に国際会議場でのプレゼンの失敗を教訓に、『ゆっくり』『はっきり』話す事を心がけました。

何度も何度も練習を繰り返して時間ぴったりに終わる練習もしました。

この時の練習がその後、本当に役立ちました。会社を経営していると色んな人の前で話す機会が嫌でもあります。必ず規定時間ぴったりに終わると言うのがこの練習で特技と言えるものになっていました。

運命の日がやって来ました。

会場にかなり早く着いた私は会場の前で座って待っていました。

数人の方が同じ日にプレゼンするようです。すでに早い順番の人の発表は始まっていました。

隣にひとりの女性が座りました。

『私の前にプレゼンする人かな?』と思っていると向こうから声をかけて来られました。

女性「あなた、今日プレゼンする方?」

私「はい。そうです。」

女性「私、打間って言います。今日の審査員です。」

びっくりしました。

聞くとこの打間先生は神戸異人館でレストランやドレスショップを経営されていて異人館も所有されている大社長です。

異人館ウエディングを最初に始められた女性起業家のはしりのような方です。

本当は今日の審査会に来る予定では無かったけれどウエディングの人(私の事です)がひとり居るのでその人のプレゼンだけ聞くために来た、と言うお話でした。

他の審査委員は全員男性だし、ウェディングの事は良く分からないと思うから自分が行かなくっちゃと思って下さったようです。

予定時刻より早めに何でも行ってみるものです。

待ち時間の間、打間先生と色々なお話をさせて頂く事が出来ました。

その中で一番心に残っている会話です。↓

先生「あなた、お子さんいらっしゃるの?」

私「はい。3歳と1歳の子がいます」

先生「女性が子供を育てながら事業を続けていくコツはね、
『頑張り過ぎない事』これに尽きますよ。」

今もこのお言葉を胸に刻んでいます。

いよいよ自分の番が来ました。

打間先生と一緒に会場に入りました。

しーんと静まり返った審査会場。

私は今までの思いのたけをすべてぶつけるような気持ちで発表しました。

打間先生の心に届け!と言う思いで。

私の話が終わったのと修了時刻のベルが鳴ったのがほぼ同時でした。

終わって「ありがとうございました。どうぞよろしくお願い致します」と言って会場を後にしようとした時の打間先生のひと言。

「あら、あなた。私と誕生日が一緒ね!!」

ニコニコ顔の打間先生がそこにいらっしゃいました。

しーんとしてピリピリした中、その大きなひと言で場の空気がさっと和んだのが分かりました。

嬉しかったです。自分の気持ちもピンと張り詰めている時、そんな温かいひと言が本当に嬉しくてたまらなかったです。

すぐに私は打間先生の方を向いて言いました。

「あっ、そうなんですか!光栄です!」同じくニコニコ顔で。

その瞬間、私は心の中で助成金はゲットした。と思いました。

何の根拠もないです。自信もないです。

でも「誕生日が一緒ね!」のひと言でなぜか確信に近くそう思ったのです。

不思議ですね。

家に戻った私は自分の声が全く出なくなっている事に気付きました。

自分では気が付かなかったのですが発表までのプレッシャーは相当なものがあったのかも知れません。

発表の次の日の朝、1本の電話が入りました。

テイクオフ大阪21の担当の方からです。

「原田さん、おめでとう!認定されたよ!しかも助成金も出るよ!」

その次の言葉がありがたかったです。

「打間先生以外の先生はみんな助成金を出すのには反対でした。
だけど打間先生がひとり頑張ってみんなを説得してましたよ」

打間先生に感謝の言葉もありません。

お礼を言って電話を切った後、異人館にいらっしゃる打間先生に電話をしました。

これも不思議な事なのですが、打間先生は全国を飛び回っていらっしゃるので異人館の事務所にいらっしゃる事はほとんど無いそうなんです。

それが電話をかけたすぐに打間先生が出られたのにも何か不思議なご縁を感じずには居られません。

声にならない声でお礼を言った私に返って来た言葉が

「あら、あなた何その声?でもそれだけ頑張ったって事よね」

最後に「これから頑張んなさいよ!」とおっしゃって頂けました。

こ時の「がんばんなさいよ!」の言葉があったから今まで頑張って来られたと思っています。

この時がウェディング工房てく・まりんぼの本格始動の瞬間だったと思います。
(第27話)

第27話 やっと本格始動

なんと1年9か月ぶりの更新です。もし、ご覧頂いている方がいらっしゃったら嬉しいです。

 

本当にありがとうございます。もう少し頑張って更新頻度を上げますので引き続きご覧くださいませ

 

このブログは誰かに見てもらうと言うより自分史の記録の要素もあります。こうやって過去を整理する事で今度は未来も見えてくるような気がしています。

 

私にとっては激動の2000年、2001年でした。でも16年経った今、思い出してみるとあの頃の方が今よりずっとずっと怖いもの知らずでした。

 

だから起業できたのだと思います。今は正直言って怖いものだらけです(笑)あの頃にもし、戻る事が出来たらもっともっと上手な商売が出来るのにと心から思います。これから起業をお考えの方がいらっしゃいましたら是非反面教師としてご覧ください。

なんだかんだ言っても起業って最高に楽しいですし、素敵な事です。応援しています♪

 

打間先生との出逢いのところまででしたね。前のお話は。
2001年の出逢いから15年経過した今年2016年、なんと打間先生と再会しました。本当に嬉しい再開でした。
再開のいきさつはまた機会があれば詳しく書きますが、15年ぶりにお会いした打間先生は『先生』と呼ばれるのを嫌う『ダマ奈津子』さんとなっておられました。

 

15年間、勝手に心の師匠と思い続けてきました。私に取って一番尊敬する方は今も昔もダマ奈津子さんです。

 

話を2001年に戻します。

 

認定を受けたらすぐにお金がもらえるわけでは無く、またまた行政の大好きな書類提出が待ち受けています。

何にいくら必要なのか各所に見積書も出してもらわないといけません。

 

大変面倒ですがもらえると分かっているものに対する書類ですのでそれ程苦には思わず書類提出を済ませました。

 

怖いもの知らずはこの時にも発揮されました。
助成金は100万~400万円と言う幅があります。・・・当然400万円欲しいですよね。
400万円分の見積書をかき集めて、提出したのですが実際に振り込まれた金額は100万円でした。(今、初めて金額を公表します)

振り込まれた通帳片手に電話しました。そうです、テイクオフ21の事務局にです。

「400万円申請したのに、どうして100万円なんですか!(怒)」って。
こんな電話するなんて今の自分なら有り得ないです。
100万円頂けただけでも大変ありがたい事なのにこれではまるでヤクザです(笑)
当然、理由は教えてもらえません。

 

後日、担当者の方に会った時に理由を教えてもらいました。見積書の中に車が入っていたのがダメだったみたいです。

 

「どーせ、プライベートで使う目的でしょ。」と思われるみたいです。

 

またそれで食ってかかった懲りない私。「じゃあ、何で先に教えてくれなかったんですか!」って笑いながらですが言ってしまいました。

 

イー加減にしなさい、自分。です(笑)

 

(28話に続きます)

第28話 助成金の使い道

頂いた助成金の100万円を何に使ったかといいますと。

『結婚式速報新聞』(←第20話参照)に使うカラーレーザープリンタをまず購入しました。70万円位しました。

今は軽くてコンパクトで安価なものがたくさん出ていますが、当時A3サイズの両面フルカラーのレーザープリンタは大きいものしかありませんでした。90キロあるレーザープリンタを毎回、車に積んで結婚式場に出かけて行くのです。

夫が主となってやっていたビジネスで時々手伝っていた程度ですが、車に積み込むのは本当に大変な作業です。

『寒い』事と『重い』事が何より嫌いな私にとってあの90キロの積み込みは今思い出してもゾッとします(笑)

後は楽天市場店に出店する資金にしました。

楽天市場と言うショッピングモールがある事を知ったのは2000年だったと思います。
新しいもの好きの夫がパンフレットを取り寄せてみていたのを覚えています。

当時は今のように色んな出店プランも無く月5万円の一律出店プランだったと思います。
半年分30万円の前払いです。

売上に対して何パーセントか支払う仕組みが出来たのはこの何年か後です。この頃は5万円以上の出費は何もありませんでした。

それでも30万と言うお金を捻出する事が出来なかった私はこの助成金を使って出店する事ができました。

プリンタと出店料でちょうど100万円です。

(29話に続きます)

※29話以降の過去のデーターが無くなっています。2018年7月より再度書き進める事にします。

第29話 楽天市場

今でこそ大きなビルで営業されている楽天市場さんですが、当時は確か西中島南方(にしなかじまみなみがた)と言うところの雑居ビルのようなところだったと記憶しています。

新規出店者向けのセミナーに参加しました。2001年の秋か冬頃だったと思います。

自社店舗のホームぺージは持っていましたがまだオーダードレスの紹介のみのサイトでした。

楽天市場店がインターネットショップとしてのスタートになりました。

セミナーには10名ぐらいの方がいらっしゃっていたと思います。その中にショップ名は【アンジェ】、店長はホラモトさんと言う方がいらっしゃいました。

そうです、知る人ぞ知る【アンジェ】さんです。

一緒に新規出店者向けセミナーを受けましたが、その後目まぐるしい発展を遂げられました。

商売の規模としては大きく大きく差を付けられた形になりました。

商売のセンスと言うものは確かにあると思います。ホラモトさんは素晴らしい商売のセンスをお持ちの方なのだと思います。

後日談になりますが数年後、ネットショップさん向けの売り上げアップセミナーに参加した際の講師がホラモトさんでした。

同時スタートでも大きな差が付きました。他にももうお一人、そんな方がいらっしゃいます。

少しの嫉妬と共に『どこでどうしてこんなに差がついたのだろう』と言う気持ち、色んな気持ちが複雑に入り混じっていました。

これを書いている2018年7月6日現在、そう言う気持ちは全く無くなっています。

2001年から今に至るまで本当に色々な事があり、つまらない嫉妬など意味が無いと言う事に気づきました。

他者と比べず、自分をしっかり見つめて足元固めて前に進む事しか無いのです。

第30話 なかなか売れない

30万の出店料を払い込んで出店した楽天市場店でしたが、全く売れない日が続きました。

なぜなら、オーダードレスしか売り物が無かったからです。

今なら断言出来ます。売れるはずがありません。

『貴女のドレスが出来るまで』などコンテンツは充実していましたが、使った買い物かごはただひとつ【オーダードレスお申し込み】ボタンのみでした。

後はドレスのデザイン画をたくさん描いて、なんだかわかりませんが0円の買い物かごを付けていました。

買い物かごの無駄使いです。

ネットでモノを売ると言う事はどういう事なのかが全く分かっていなかったのだと思います。

1~2ヶ月経ってやっと気が付きました。『小物を売らないと売れない』と言う事に。

(31話に続く)